書籍「新版 大化改新」

※サイト管理人が興味をもった部分を紹介します。

はじめに

 大化改新とは、中国唐の律令制と範として公地公民にもとづく中央集権国家の樹立をめざした政治改革と言われています。そのきっかけは、蘇我入鹿が暗殺されて蘇我氏本家が滅亡した政変、すんわち「乙巳の変」です。

 乙巳の変に徹底的な再検討を加え、大化改新の実像の考察を深める材料を提供します。

書籍情報

タイトル

新版 大化改新

「乙巳の変」の謎を解く

著者

遠山美都男

出版

中公新書

入鹿暗殺

 数名が叫びながら、体当たりをするように入鹿に切りかかりました。頭部から肩が斬り割られ、たまらず倒れます。入鹿と刺客たちの周囲におのずと輪なした人たち、その刺客の中から入鹿の返り血を浴びた中大兄皇子(女帝の皇子)が現れたのです。

鞍作(入鹿のこと)はわが天孫一族を根絶やしにし、天皇の地位を窺っていたのです。鞍作ごときに天孫一族を代えることができるでしょうか

 そして2名の刺客が入鹿にとどめを刺すのです。

軽皇子(孝徳天皇)の人間関係

 「日本書紀」「家伝」上によると、軽皇子は「足の病」のために朝廷に出仕せず、自身の宮に引きこもっていたといいます。

 中臣鎌足は念願を成就するため、かねてから親しかった軽皇子に接近を試みたのです。軽皇子は鎌足の人物を認め、接待を命ずるなどの破格の待遇で鎌足を迎え入れました。

 大王に擁立するとほのめかし、それを真に受けた皇子は手放しで喜んだのです。

 その後、軽皇子の甥の中大兄皇子に目をつけると、軽皇子をばっさり見限り中大兄皇子に接近したことになっています。

 「日本書紀」「家伝」上では、皇極女帝が突然譲位の意志を表明したために、もともと大王になれるはずがない人物が、偶然に大王になったかのような感じがあります。

 軽という地名は河内国古市郡の軽墓村に存在していました。現在の大阪府羽曳野市です。軽皇子の養育に関わったとみられる豪族として、軽部朝臣をはじめとして、軽部臣、軽部君、軽部造、軽部などの存在が想像できます。

 軽の名を持ち、軽部から貢納、奉仕を受けるのに相応しい人物は軽皇子でしょう。軽部手段とも決して無関係ではなかったはずなのです。

 むしろ和泉国和泉郡軽部郷には軽部諸氏や軽部集団のみならず、成人後の軽皇子が存在したのではないかと推測されます。

 和泉国和泉郡軽部郷の周辺にあたかも皇子の宮を囲繞するように統括していた中臣氏本家です。

 鎌足が軽皇子とかねてよる親交が深かったという所伝は確かなものでしょう。中臣氏同族の存在を通じて、軽皇子と接触・交渉する機会をもえたものとみられます。

突如譲位を告げた女帝

 蘇我蝦夷が誅殺された翌日に、皇極女帝は突如として中大兄への譲位を告げました。前大王の皇子であり年齢も相応しいかったのです。彼は飛鳥寺に出向くと、そこで出家の儀式を執り行い、自身の王位継承権を惜しげもなく放棄してしまいます。そして吉野の山中に隠遁してしまうのです。

 即位が否定されると軽皇子の即位が実現したことになっています。

 女帝が突如として譲位を思いついたという点も極めて疑わしく、クーデターについて何も知らされていなかったということに問題があります。

 新天皇の誕生を宣告するセレモニーは早朝のうちに行うのがふさわしいと考えられていました。軽皇子即位の日付が6月14日だという点が疑えない以上は、既に日程に組み込まれていたとみられるのではないでしょうか。

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