中田薫/著者:北康宏

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書籍情報

タイトル

人物叢書 新装版 中田薫

発刊 2023年8月1日

ISBN 978-4-642-05312-9

総ページ数 343p

著者

北康宏

同志社大学文学部教授、博士(文化史学)

出版

吉川弘文館

もくじ

  • はじめに
  • 第一 転勤族官僚の子の日本各地での文化体験
    • 一 山梨甲府での誕生
      • 中田家の出自と鹿児島での生活
    • 二 高等中学校時代
      • 鹿児島から京都へ、そして仙台へ
    • 三 第二高等学校での日常と交友
    • 四 校長排斥運動と中田の単独行動
      • 旧制高校の学生気質のなかで
  • 第二 東京帝国大学法科大学における学問形成と恋愛
    • 一 法科大学政治学科入学と受講した講義
    • 二 中田の学問形成とその基盤
      • 梅謙次郎と宮崎道三郎からの影響
    • 三 彌生亭での熱烈な恋物語
    • 四 大学卒業とその前後
  • 第三 大学院・助教授時代の研究と戸水事件の体験
    • 一 大学院時代から助教授時代の研究進展
    • 二 父直慈の死と家督相続
    • 三 戸水事件と東大法科の動き
      • 大学の自治との最初の関わり
    • 四 吉田茂の妹紹介から結婚へ
  • 第四 欧州留学
    • 一 長男の誕生と欧州留学
      • 上杉愼吉との交流
    • 二 語学力の低下と留学スタイルの変化
      • 上杉愼吉と吉野作造の事例
    • 三 ハイデルベルクからベルリン・パリへ
    • 四 吉野作造との交流と留学の成果
    • 五 帰国後の環境変化
      • 長男瑞彦の成長、戸水の退官、教授就任
  • 第五 法学部「若手グループ」の活躍と大学の自治
    • 一 澤柳事件(京大事件)
      • その前史と経緯
    • 二 澤柳事件への東大法科の応援
      • 中田の暗躍劇
    • 三 宮崎先生在職二十五周年事業、母ワカの死
    • 四 大学制度改革と「若手グループ」
    • 五 中田の多彩な趣味と小野塚喜平治との交流
  • 第六 中田の教育理念と学問の自由
    • 一 ヘボン講座設置問題と学術研究所構想
    • 二 中田の教育観
      • 講義と学生指導
    • 三 帝国学士院恩賜賞の事態と宮武外骨との出会い
      • 中田の頑固さ
    • 四 中田と上杉との関係変化
      • 上杉の山県有朋への接近、森戸事件
  • 第七 大学行政での活躍と講義準備・学生指導の日々
    • 一 総長公選制度の確立
      • 古在由直総長の選出事情
    • 二 文化財保存への思い
      • 弁慶橋保存問題と黒板勝美との接点
    • 三 法制史講義の担当開始と弟子の育成
    • 四 牧健二との論争
    • 五 定年制の創始をめぐる中田の奔走
      • 澤柳事件の反省と恩師宮崎の退官
    • 六 田中の一年限りの羅馬法講義
  • 第八 関東大震災後の大学復興と研究の進展
    • 一 震災前の法学部研究室整備
      • 中田の奔走
    • 二 関東大震災と史料の焼亡
    • 三 国立への大学移転案
    • 四 震災後の大学復興と法学部
      • 安田講堂、法文一・三号館
    • 五 宮武外骨の法学部招聘
      • 明治新聞雑誌文庫創設の前史
    • 六 吉野作造の苦境と朝日新聞社での日々
    • 七 明治新聞雑誌文庫の設立と中田の尽力
    • 八 『法制史論集』第一巻刊行
      • 瀧川政次郎破門伝説の真相
    • 九 中田の学問の深化と展開
      • 大正から昭和初期
    • 十 文学部への出講の史学史的意義
      • 坂本太郎と石母田正への影響
  • 第九 法学部長として ―左翼運動と学生処分―
    • 一 法学部長就任と九州帝国大学内訌事件への関与
    • 二 七生社・新人会乱闘事件と総長告諭
    • 三 恩師宮崎道三郎、親友上杉愼吉・吉野作造の他界
    • 四 古在総長から小野塚総長へ
      • 学生主事・学生課の設置
    • 五 左翼学生への対応
      • 小野塚総長自宅訪問事件・中田の学生処分の方針
    • 六 平野義太郎とその処理をめぐって
    • 七 学部長辞任と学問への回帰
      • 恩師粟野健次郎先生の書簡を受けて
  • 第十 軍国主義の抬頭と大学自治の危機
    • 一 瀧川事件と東大法学部
      • 若手教授・助教授の動き
    • 二 法学部懇話会の開催と中田の態度
      • 瀧川事件の左翼的背景
    • 三 配属将校増員問題とその経緯
    • 四 配属将校問題における田中耕太郎との共闘
      • 中田総長擁立計画の噂
    • 五 美濃部事件と中田による「国体明徴訓令」の修正
  • 第十一 中田の退官と戦時下の大学
    • 一 最終講義、名誉教授辞退の波紋
    • 二 還暦祝賀と退官後の学問の集大成
    • 三 中田と田中耕太郎の共闘
      • 「田中恐るべし。而して中田必ず身を誤るべし」
    • 四 矢内原忠雄筆禍事件と大内兵衛検挙
      • 中田の奔走と中田の感慨
    • 五 荒木貞夫文相の大学制度の改革
      • 田中の協力で作成された「田中メモ」
    • 六 平賀粛学と田中糾弾、中田の始動と感慨
      • 「大学の自治」の挫折
  • 第十二 戦中・戦後の生活と静かな晩年
    • 一 戦中の生活
      • 孫の誕生と疎開
    • 二 文化勲章受章、臨時法制調査会
      • 中田の時世認識
    • 三 愛弟子原田慶吉の自死
    • 四 法制史学会創設、学士院第一部長就任、文教懇話会
    • 五 静かな晩年と永眠
      • アルト・ハイデルベルク
    • 中田資料の寄贈
  • おわりに
  • 中田家関係系図
  • 略年譜
  • 参考文献

はじめに

 中田薫は、日本における法制史学の創設者です。東京帝国大学法学部教授として堅実な学問的人生を歩み、ドイツ歴史法学と自由方論を用いて、支配者目線で描かれてきた従来の公法史的な日本歴史の奥に私法史の水脈を捉え、個人の権利意識を軸に歴史を書き出しました。

 中田の人生は純粋な学的営為に留まりません。「大学の自治」「学問の自由」を守るために戦った大学人であったことは、意外と知られていないのです。退官後も軍国主義に飲み込まれんとする大学を陰で支え続けました。

中田の学問形成

 中田の学問基盤を宮崎道三郎から学んだゲルマニステンの歴史法学に求めるのが一般的です。それを積極的に受容した後世の法会学者やマルクス主義者と比較すると、中田の受容は異質です。柔軟で現実的な視角、自然法に基づく権利意識や所有権観念を基礎に置きつつ歴史的・地理的な多様性を把握する視角が、中田の本源的な思考基盤をなしています。

 利害得失と生存競争を基軸に政治史とは異なる私法史の展開を描く梅の講義の視角は、中田の割地制度や荘園制の研究にも通底します。多様な国々の民法と法慣習しつつ日本の法慣習の理解を進めるなかで鍛えあげられた実践的なものです。中田の法制史学はこうした視角を引き継ぎ、これをより専門的な研究へと深めたものなのです。

 自信の成長期の文化体験がモンテスキューへの傾倒を後押ししています。山梨・東京・鹿児島・京都・仙台と日本各地を転々として、現在の比ではない多様な地域の慣習や風土を体で感じ取ってきた中田の体験は『法の精神』を読みながらリアルな経験として蘇り、文化の多様性の中に一定の法則や精神を見出すという視点を育み、中田の比較法制史研究の土台となりました。

 官僚の道に進もうとしましたが、日本文化の競う研究に没頭ため捨てています。宮崎から学んだドイツ歴史法学の魅力、ローマ法やキリスト教文化に抹消されたゲルマン社会の法と文化の再発見というグリムやハイネの探求方法にのめり込んでいます。

欧州留学から帰国

 欧州留学から3年ぶりに帰ってみると、父親の顔を見ずに育った息子が3歳になっていました。大学では敬愛する戸水寛人先生が留学中の明治41に辞職していたのです。助教授になったころに、ローマ法のグロッサーのついた古典籍の説明を受け、贅沢な鰻をごちそうになったことが昨日のことのように思い出されました。

 明治44年、留学先での研鑽が評価され、中田は教授に昇進しました。美濃部達吉が兼任してきた比較法制史講座の担任となったのです。中田の講義は西洋法制史からスタートし、フランス法制史とドイツ法制史を隔年で講じています。

 法学協議会付属法理研究会で、留学の成果を発表しています。制定された実定法の解釈に専念してきた概念法学を相対化し、時間のなかの動的な法創造の位相に着目する自由方論は、その後の中田の法制史研究の1つの土台となりました。

左翼学生への対応

 小野塚喜平治が実質上トップに立った昭和3年4月17日の大学評議会は、日本共産党と関係者約1500人が検挙された三・一五事件の動向を睨み、十数名が検挙された新人会に解散を命じることを決しました。小野塚は水野連太郎文相との会談を奉公し、政府の強硬姿勢のなか、東大については一任されているので自発的解決を目指すつもりだと解散を提起しました。

 小野塚の露骨な弾圧は、左翼学生に自由擁護という大義を与え運動を激化させました。学生大会で総長詰問書を決議し、面会を要求して拒否されると、夕方には学生3人が小日向台町の小野塚私邸を訪れ、座り込みに入りました。電話で助けを求められた中田は学生主事に追放し、当直事務官と守衛数名を駆けつけさせ、学生といったん面会するよう勧めました。

 話し合いに応じるて辛辣な質問を浴びせるも、中田は理論家小野塚にも見事に答弁して要求の大半を拒絶します。問答は3時間に及んだと言います。中田は学資を研究室に読んで自ら処分を申し渡し、動機を尋ねつつ温情的に説論しました。昭和10年の卒業式後には、以前停学を申し渡した左翼学生が「処罰されなかったら相変わらず左翼運動を継続していたと思います」と涙を浮かべていたそうです。

文化勲章受章

 昭和21年2月、69歳の中田は文化勲章を受章しました。戦後最初の受賞です。今まで受賞を断ってきましたが「コンドワコトワルナ」と電報が届き、他人の迷惑を考えて受理することにしました。

 終戦後は中田は、政治にとても近い立ち位置に置かれています。昵懇の親友松本烝治は幣原吉重郎の国務大臣(憲法問題調査委員会委員長)として憲法草案の作成に尽力し、義兄の吉田茂は朱書として戦後復興を主導していました。教え子の田中耕太郎は文部省学校教育局長や第一次吉田内閣の文部大臣、最高裁判所長官として新しい時代を導き、破門した弟子の瀧川政次郎も極東国際軍事裁判戦犯裁判の弁護人を務めています。

 中田は積極的に動くことはせず、戦中・戦後を通してアカデミズム以外のために動くことはほとんどありません。憲法改正にともなう諮問機関として「臨時法制調査会」が吉田茂内閣で設けられました。中田が抜擢されたのは第2回総会直後、論戦がクライマックスを迎えた時期です。

 歴史的伝統をふまえた法律進化のうえに新立法は行われるべきであると主張し、翌年の『法律新報』に掲載されています。臨時法制調査会の議論をふまえた改正民法は、昭和22年5月3日の日本国憲法施行には間に合わず、12月22日に民事訴訟法とともに新憲法の原理に基づいて改正され、家の制度と家督相続が廃止されています。

あとがき

 中田は、世界的視角を持ち、法制史の研究をして、大学の自治を守るべく奔走しました。関東大震災の史料喪失のなかで、ジャーナリスト宮武外骨を学歴と無関係に東大に迎えて明治新聞雑誌文庫を創設、資料保存に尽力しています。

 終戦直後は民法改正の委員にもなりますが、新しい世代の法学者たちから、歴史に盲従するための知識など実定法の制定には何の役にも立たないと徹底的な批判を受け、身を引いて静かな晩年を過ごした人物です。

 梅の素描いて歴史的に基礎づけたのが、中田の法制史学です。その意義と限界について、いまあらためて問いなおすときに至っているように思えます。

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