ノンフィクション・歴史「大東亜戦争の事件簿」をよんで

書籍情報

タイトル

大東亜戦争の事件簿

著者:早坂隆(はやさか・たかし)

1973年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。大磯町立図書館協議会委員長。

主な著書に『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』『ペリリュー玉砕』(いずれも文春新書)、『昭和史の声』(飛鳥新社)などがある。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』(文藝春秋)でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。

【公式ツイッター】https://twitter.com/dig_nonfiction

巻末にて抜粋

出版

育鵬社

内容

 支那事変(日中戦争)は昭和12(1937)年7月7日の虚構橋事件が発端となり、起こりました。実はそれ以前にも連続して事件が起きていたのです。

 昭和10年11月9日、日本海軍の隊員が中国人に背後から射殺される。
 昭和11年7月7日、日本商人が背後から射殺される。
 8月24日、大阪毎日新聞の記者が、中国人の暴徒に襲われ死亡する。
 …

 日本人の隊員、商人、記者、警察官、多くの方が虚構橋事件の前に、中国人の手によって殺害されています。

 日本近代史教育では、「日本が加害者」である事件ばかりが教えられる。「虚構橋事件」もその1つです。近代史の教育は、全体として偏りがあるものになっています。
 一方が加害者、一方が被害者では、歴史の史実を見失いかねません

 歴史の出来事の裏に何があったのでしょうか。

著書の魅力

戦時中の日本人のおもいやり

 歴史上で日本人がどんな良いことをしたのかが読めます。戦時中という時代と立場の関係もあって、良いことであっても行動を起こすのには反発もあったでしょう。日本人が数々の人を救っています。おびに書かれている通り、日本人ならば知って起きたい真実です。その真実はあまりにも知られていません。

 虚構橋事件後、支那事変は中国各地へと広まりました。中国軍部隊は上海にある日本人の租界区域を包囲しました。昔から中国は、海域進出(シーパワーエリア)を狙っていたのです。どうしても、上海は欲しいのでしょう。しかし、日本軍を攻撃するも撃退されてしまいます。このときの日本軍の戦死者は1万人にも及びました。
 中国軍は首都の南京へ退却します。日本軍による南京の追撃戦がはじまりました。そして、南京の街は包囲されました。日本側としては、中国との和平を望んでいたが、散布した「投稿勧告文」を無視されています。

 南京戦後、日本軍は中国各地で進軍を続けました。黄河北岸近辺の小都市を次々と占領していったのです。それでも蔣介石は徹底抗戦を唱えて、毛沢東も時給戦論を掲げていた。
 日本軍の進撃を止めたかった中国軍は、「水攻め」にしようと堤防を数回に渡って爆破しました。黄河決壊事件です。これにより、日本軍の一部は孤立し進軍も止まりました。このとき、中国側は住民を事前に避難させる対処をほとんどしていません
 この人災は、11の都市と4,000もの村を水没させ、100万人前後の水死者を出しました。被災者は役1250万人行方不明者は約819万人にも上ります。中国はこれを日本軍のせいにしているそうです。中国の今の歴史の教科書には、なんと書かれているんでしょうか。
 人災が起きていたとき、なんと日本軍は住民の大規模な救助活動をしたといいます。100を超える船いかだを出し、必死の救出活動をしていたのです。土嚢をつくり防水作業にも尽力していました。
 この史実はアメリカの「ブルックリン・デーリー・イーグル」で記事にされて、伝えられました。アメリカ人でも知っている人がいるかもしれません。日本人はどのくらい知っているでしょうか。

 日本のシンドラーと呼ばれる杉原千畝はご存知だと思います。ナチスドイツから迫害を受けれいる6,000人のユダヤ人に対してビザを発給した人物です。「命のビザ」といわれ、世界中に知れ渡っています。
 この出来事の2年前にユダヤ人を救出している人がいるのです。樋口季一郎、軍人です。
 諜報員として転々と外国を周り、ウラジオストクに滞在したときにユダヤ人と交流を持ちました。その後、ヨーロッパ情勢を熱心に学び、差別の実態を目の当たりするのです。
 満州の諜報員に就任すると、極東ユダヤ人大会を開催します。ユダヤ人への弾圧を強めるナチスドイツを糾弾する内容の大会です。当時の日本は親独でした。批判の声も殺到していたようです。スピーチでは、「化学・芸術・産業の分野において、歴史的にみてもユダヤ人は我々と同じ才能を持っているではないか。なぜ追放するのだ。」のような発言をしています。
 ユダヤ難民はポーランド、ソ連と追放されて、行き場を失っていました。手を差し伸べたのは樋口です。満州国外交部に働きかけ特別ビザを発給するように促しました。食料や衣類の手配を済ませ受け入れ態勢を整え、特別列車の運行を要請したのです。運賃も無料です。助けたユダヤ人は、かなりの規模だったと推測されますが、詳しいことは樋口が口を閉ざしていたため、隠された事件となっています。
 当時、満州の大連で暮らしていたユダヤ人のクララ・シュバルツはこういいます。「ヒグチは偉大な人物です。日本字はヒグチのことをあまり知らないのですか?日本人は学校で何を習っているのですか?

信用できない外国

 日本ほど、民間人が外国人に殺されている国もないでしょう。事実の歪め方がひどいです。

 昭和12(1937)年7月29日、北京の東方に位置する通州という町で大虐殺事件が起こりました。(通州事件)

 通州の街はかつて親日でした。通州は城下町で城壁に囲まれている、日本人がおおく滞在しているところだったのです。綿花の栽培が盛んに行われており、栽培方法を教えることで、中国と親睦を深めたい日本は、多くの人を派遣していました。飲食店や雑貨やアパレルショップなどで、賑わっていたそうです。
 日本人の保護を目的とした「治安部隊」が、現地住民で構成されていました。「治安部隊」の中に中国共産党のスパイが紛れ込んでのです。工作員らは「抗日」を繰り返し訴えて、治安部隊を寝返させることに成功しました。
 7月になると、「日本人皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」大声で喚きながら行進する、銃や青龍刀をもった学生がかっぽするようになります。そんななか、保安隊の施設を関東軍が誤って爆撃してしまったのです。数名が犠牲になりました。謝るも、抗日感情は広まったのです。
 通州事件の凌辱の光景はひどいものでした。3人ほどの学生が娘の股を広げるだけ広げ、銃身の先で陰部の中に突き刺し、陰部を抉り、腹部を裂いて、剣で首を切り落としました。老婆にも切りかかる。妊婦にも通りすがりに切りかかり、陰部から切り上げて赤ちゃんを掴みだすと、赤ん坊でキャッチボールを始めました。
 通州事件で200人以上の民間人が犠牲になりました。戦時中に非戦闘員の犠牲があってはなりません。東京日日新聞(現:毎日新聞)で号外が出せれる。「通州で300名のほとんど虐殺される。」当時の流行語として「暴支膺懲」暴虐な支那を懲らしめよ、という意味の言葉が広まったのです。

サイト管理人

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毛沢東の社会主義は、支配力が凄かったことが分かります。
学生を操るのは、簡単だったことでしょう。
毛沢東は過去、一番人間を殺したのではないでしょうか。

教科書の上辺だけの出来事と年号じゃ、面白くないです。歴史の勉強なぞ、生まれてしたことがありません。いつも赤点にならないギリギリの点数です。それでも、教科書を読みませんでした。そんな私でも、最後まで読めます。

歴史に関しては、多方面から物事をみて真実をみつめたいものです。

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