アメリカ音楽史

※読んだ本の一部を紹介します。

※そのままの文章ではありませんが、試し読みする感覚でお楽しみください。

はじめに

 ブルーズ、ジャズ、カントリー・ミュージック、R&B、ロックンロール、そしてヒップホップ、私たちが日常的に接する音楽の多くはアメリカで誕生しました。

 一国の音楽文化は社会や政治、さらには産業と無縁ではありません。特にアメリカでは、ジャズ、カントリーなど「人種」によって分節されるジャンルの発展は政治的イデオロギーと密接です。

 アフリカ系アメリカ人、さらにはヒスパニック/ラティーノの音楽家の活躍は、フェミニズムや社会運動を起こしています。

 昨今の批評理論の発達により、この分野の研究も目覚ましい勢いで進んでいるようです。その研究成果を踏まえたうえで、アメリカのポピュラー音楽の特性を明らかにしてみましょう。

書籍情報

タイトル

アメリカ音楽史

ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで

発行者 鈴木哲

発行 (株)講談社

ブックデザイン 山岸義明、講談社デジタル制作部

印刷 慶昌堂印刷(株)

製本 大口製本印刷(株)

著者

大和田俊之

慶応義塾大学法学部教授。博士(文学)。日本ポピュラー音楽学会理事。

出版

講談社 選書 メチエ

カントリー・ミュージックの人気

MariaによるPixabayからの画像

イラクへの攻撃
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、その首謀者として指定されたテロリストの引き渡しに応じなかったアフガニスタンのタリバン政権に対し、アメリカ合衆国は有志連合とともにすぐに攻撃をしかけました。
 アメリカの報復はこれにとどまりません。翌年、ブッシュ大統領は一般教科書演説で北朝鮮、イラン、イラクの3か国を「悪の枢軸」と呼び、名指しで非難します。
 大量破壊兵器の査察を拒否し続けてきたイラクに対しては、着々と攻撃の準備を進めていました。正当な理由がないままイラクを攻撃することについては、フランス、ドイツ、ロシア、中国などが強く反発していたのです。アメリカ国内でもイラクの攻撃については議論が分かれていました。
 しかし、国連の報告書はアメリカの疑念を払拭するには至らず、強硬手段を選択します。2003年3月17日、アメリカはイラクに対する先制攻撃を行い、19日に全面的な攻撃を開始しました。

 ひとこと言っておきたいんだけど、わたしたちはアメリカの大統領がテキサス出身だという事を恥ずかしく思っているの。

ロンドンコンサートでのナタリー・メインズの発言

 ナタリー・メインズの発言は、イラク戦争直前になされたものです。カントリー・ミュージック界のスターの発言は大きな波紋を呼ぶことになります。

 各メディアが情報を発信する前から、彼女らのバッシングが始まり、ディクシー・チックスのCDの不買運動も展開されました。

 こうした反応を理解するためには、カントリー・ミュージックがアメリカ国内でいかなる政治性を帯びているかについて知っておかなければなりません。

 カントリー・ミュージックは、保守勢力が比較的強い地域で人気です。大統領選挙の結果をみるかぎり、アメリカ合衆国の東海岸や西海岸、それに五大湖周辺の都市部以外は保守勢力の影響力があります。

ジャズの正史

Peter HによるPixabayからの画像

ジャズって何だ?
 このジャンルの初心者にマイルス・デイヴィスの『クール誕生』(1949~1950)よ『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』(1981)を続けて聞いた後で、同じジャンルだと納得できるでしょうか。
 同じジャズと規定する根拠はそもそも何でしょうか。

 素朴な疑問がジャズにはつきまといますが、ジャズの制度化は進んでいます。

 アメリカの多くの大学にジャズを専門とする学科や専攻が設けられ、歴史や演奏法が日常的に享受されているのです。こうした状況を背景にジャズの「正史」もかたまりつつあります。

 ジャズの歴史は、アフリカ文学やラグタイムなど先行する音楽に言及することからはじまり、時代に対応するスタイルが解説されています。1920年代までのニューオーリンズ・ジャズ、1930年代のスウィング・ジャズ、1940年代のビバップ、1960年代のフュージョン、フリー・ジャズと世代とジャズのスタイルが流れていくのです。

 「正史」が間違っているわけではありません。しかし、あらゆる歴史がそうであるように、不変の過去を記録したものではなく、さまざまな言説の衝突の結果としてゆっくり浮上してきたものではないでしょうか。

ロックンロールの衰退

WikiImagesによるPixabayからの画像

ロックスターの悲劇
 1957年10月、オーストラリアのツアー中にリトル・リチャードは「神の啓示を受け」音楽界から引退を発表しました。翌年には最大のスター、エルヴィス・プレスリーの徴兵が公表されます。エルヴィスの入隊2カ月後にジェリー・リー・ルイスのスキャンダルが発覚したのです。
 1959年2月3日バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・バッパーを載せた小型飛行機がミネソタ州ムアヘッドに向かう途中に墜落し、パイロットを含めた4人全員が死亡しました。その年の暮れには、チャック・ベリーが14歳のウェイトレスとの淫行容疑で逮捕され、投獄されてしまうのです。
 1964年2月7日にビートルズがニューヨークの空港に降り立つまで、チャートはふたたび退屈な音楽で占められてしまうなどと、語られてきました。

 偉大なるロックスターがいなければ、音楽史において低迷期として解釈されます。

 1980年になると、人文科学の領域でこうした手法の見直しが迫られるようになりました。白人男性作家ばかりが並ぶ従来の文学史は批判の対象となります。

 それに伴って偉大なる作家を中心とする文学研究はゆるやかに解体し、著作権や読者の様相までもが研究対象に含まれることになりました。

 ロック史の見直しを試みる作業に関しては、まだ始まったばかりです。

ヒスパニック・インヴェイジョン

xarkamxによるPixabayからの画像

ラテン音楽の流行の軌跡
●1910年代にブエノスアイレスからパリ経由でタンゴが紹介されました。
●1930年代にはルンバが流行します。ドン・明日ピアスの「ピーナッツ・ヴェンダー」が全米で大ヒットしたのです。
●1950年代のマンボの流行で頂点を迎えます。「チェリー・ピンク・アンド・アップル・ブロッサム・ホワイト」(1955)はポップス・チャートで10周1位となりまりました。
●1975年にグラミー賞に「最優秀ラテン・レコーディング」部門が創設されます。
●1970年代はニューヨーク・サルサが流行していました。

 ラテン音楽は大都市を中心に定期的にアメリカ合衆国で流行してきた音楽であり、その影響力は今後も高まるのではないでしょうか。

 アメリカのポピュラー音楽史を振り返るとき、そこに人種、性的、惑星を想像して指摘することもできます。

 ロックンロールの誕生には白人音楽であるヒルビリーと黒人音楽のブルースのハイブリディティによって説明されてきました。アメリカのポピュラー音楽へのラテン音楽の影響を指摘した研究も多く存在します。

 こうした構造を打破しようとする試みが無かったわけではありません。しかし、白黒の弁証法を一貫して見出すことで成立してきたのです。

 北米に流入するラテン音楽の系譜上にアメリカのポピュラー音楽の歴史を重ねることで、従来の歴史と違った色彩豊かな音楽文化が顕在化されるでしょう。それはアメリカのポピュラー音楽を染める想像力でもあるのです。

感想

サイト管理人

サイト管理人

 小さくまとめるだけでも、かなり大変でした。

 かなり色々なジャンルの音楽を歴史をなぞって学べるます。そして、考察をそこから深く掘り下げて展開していくのです。

 youtubeで書かれている曲を聞きながら読んでみるのも楽しいと思います。広く訴えるときにアメリカでは音楽が利用されてきました。アメリカ音楽は社会と繋がっていて、世俗の重要な要素といっても嘘ではないと思います。

 非常に濃いアメリカ音楽史、学んで楽しんでみてはいかがでしょうか。

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