書籍「立ちすくむ歴史」

※サイト管理人が興味をもった部分を紹介します。

はじめに

 歴史学の大きな変化が始まっている今日、あらためてカーの『歴史とは何か』を検討することには、大きな意味があると思います。

書籍情報

タイトル

立ちすくむ歴史

E・H・カー『歴史とは何か』から50年

著者

喜安朗

日本女子大学名誉教授。フランス近代史専攻。

成田龍一

日本女子大学教授。日本近代史・都市社会史専攻。

岩崎稔

東京外国語大学教授。政治思想・哲学専攻。

出版

せりか書房

歴史家にとって「事実」とは何か

資料と事実との間の緊張関係

 資料に基づく事実ということに歴史家は非常に強く囚われてきました。けれど、史料というのは事実ではありません。

 あやふやなものだという意識がないと、どうしても権威的なものになってしまうのだと思います。

 事実はこうであろうということとの境目が無くなっていきますが、そこの緊張感で勝負をしなければなりません。

 反論が返ってくるものとして考えることも必要です。

 常に歴史は書き換えられます。

方法としての社会史

社会史の方法的な叙述の実践

 叙述の目的としては、全体的な把握ということになります。分析は1つのことを分析するわけです。

 叙述は分析を踏まえます。前もって7つか8つの分析の論文を書いているのです。

 例えば、都市システムの問題、衛生の問題、病の問題と盾に重ねて相互の関係を叙述していくといった具合です。民衆運動を主体としての述べていくにしても、権力を軸にした社会史に移っても問題ありません。

 全体に通じるような回路が社会史だと私はおもっています。

日本の近現代史の描き方

 社会史、人類学、文化人類学、歴史人類学と、いろいろな発想が浮かんできます。

 帝国主義や植民地の問題についても、世界像があって、文化があり、独自の民話を持ってきて、地域の人たちの考え方があるのです。

 現代の日本の歴史を記述する場合には、よほどいろんなことを考えないと大変だという感じがします。

 とある出版社の日本の歴史が意図しているものは、どうやら民衆史であって民衆史研究を手掛かりに叙述を試しているようです。今後はおそらく民衆史を踏まえた、具体的な近代日本の歴史叙述がなされていくことになるのではないでしょうか。

ナショナル・ヒストリーを超えて

歴史における「もし」の問題

 カー以後の現代史とは何か、歴史とは何かという論点への鋭い提示がなされました。

 問題意識に基づいて史料を分析するだけではなく、文章化すること、つまり叙述することによって歴史家としての仕事は完成します。

 文章化とは、思考過程とその筋道、到達点を表現することです。

 個々の事実から出発して、命題へと進める思考過程を文章化します。

 歴史を講義するときには、史料あるいは証拠に忠実でなければなりませんが、文学者の場合には、そうした束縛はありません。歴史と文学は違うのです。

 歴史における「イフ」の問題は繰り返し議論される内容です。「もし」の問題を排斥すると、歴史は結果論の話になってしまいます。必然的に勝者の歴史、強者の歴史になるのです。

 しかし、歴史学のなかにおける想像力というのは、「イフ」の話であると思います。

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