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目次
書籍情報
メディアエコロジー 端末市民のゆくえ
発刊 2024年1月1日
ISBN 978-4-86528-393-8
総ページ数 318p
桂英史
メディア論、芸術実践論、図書館情報学。東京藝術大学大学院映像研究家教授。
「RAM Association」プロデューサー。
左右社
- いささか長い序論 コミュニケーションの危機とメディアのエコロジー
- 広告表現とモラル・パニック
- 自己表現、承認欲求、参加意識
- 「ポストメディア」的思考について
- ポストメディアは新しい唯物論か
- エコロジー思想としてのポストメディア
- 表現者としての端末市民
- 第一章 消失と終焉 端末市民の「残余」をめぐって
- 第二章 「期待の地平」と「再帰性」をめぐるメディア論的省察
- 「正しい情報」をめぐって
- メディア・リテラシーの諸相
- 文学理論とメディア批判
- 解釈学的メディア論
- 再帰的メディア論とは
- 何のためのメディア論か
- 「どうしようもなさ」を論じること
- 第三章 プロメテウスのための新しい命法 ポストメディア運動としてのメディア・アート
- 「メディア・アートは死んだ」
- ポストメディアの系譜
- サバルタンをめぐる技術と芸術
- 「伝達可能性」と都市生活
- 端末市民ドクトリン_技術者と芸術家
- 媒体特有性とインターメディア
- コードのメディウム・スペシフィシティ
- アクティヴィズムとしてのメディア・アート
- 「ポストメディアの条件」を問い続けること_構想設計型アクティヴィズムのかたち
- 第四章 アートはコミュニケーションか 分裂生成と「芸術の臨床」
- はじめに
- コミュニケーションの市場化
- 分裂生成と「芸術の臨床」
- 「芸術の臨床」が暴露する瞬間
- 時間のフレームアップ
- 監視カメラのパラドックス
- 心的な像(mental image)としてつくる能力
- 第五章 到来の思考 端末市民を問い続けること
- 端末市民という問い
- コミュニケーションのゲーム性
- 手続きの圧縮
- 発話の擬態
- メッセージの投機的状態
- シンボルとしての「通信する動物たち」
- 強調的行動と同調圧力
- 「バナナ落としましたよ」
- 間主観性と教育劇
- 近代を準備した「世界の劇場化」
- カタルシスとしてのネットワーク
- 「ディセンサス」の主体としての端末市民
- 到来の思考
- 第六章 世界の再・植民地化と個の刷新 端末市民と超・文書主義をめぐって
- 「わたし」は忙しい
- 「いいね」は嬉しい
- 新しい植民地主義
- メタデータ社会
- 「ユーザ」とは誰か_リスクと手続き
- 端末市民というペルソナ
- 技術の社会構想力
- 個の自己解体
- 第七章 痕跡を消せ メディアエコロジーの条件
- 近代理性の「沸騰」
- 「対抗の困難」をめぐって
- 興奮や没入の正体
- 加速と反動
- 陶酔と動員
- 「公的領域」の成立
- 言論未満
- コンセンサスとディセンサス
- 「知る/伝える」ためのアーキテクチャ
- 「みんなの意見」はあまり正しくない
- 「友だちごっこのおもちゃ」
- 他者性のアーキテクチャ
- 端末市民のコスモポチタニズム
- メディア儀礼と神話
- 親密圏と公共圏
- 刷新されるアナーキズム
- ポピュリスト・モーメント
- 端末市民の再生
- コスモポリタニズムとしての端末市民
- 反テクノオートクラシーのための賢人会議
- 「あいだ」という共通世界
- ブロックパーティー・メタファ
- 祝祭群衆
- メディアエコロジーの条件
- あとがき
紹介
現代社会におけるメディアと人間関係の深い相互作用について掘り下げた本です。通信技術の進化が個人のアイデンティティ、コミュニケーションの構造、社会の構築方法にどのように影響を与えているかを探求しています。
メディアエコロジーを様々な角度から探求しています。メディアが個人の行動や価値観にどのように影響を与えるか、メディア環境がどのように進化しているか、メディアアートやコミュニケーションの新たな形態がもたらす可能性と課題、スマートフォンやコンピュータなどのデジタルデバイスを通じて消費する現代人、メディアが生み出す新たな社会構造と文化的実践についての洞察を提供します。
技術の進化が個人と社会にどのような影響を与えるかについて考えるきっかけを提供し、メディアリテラシーの重要性を強調しています。
「正しい情報」をめぐって
東日本大震災までのメディアをめぐる環境は、ソーシャルメディアを含め、強調的に『正しい情報』を獲得できるチャンスが増えてきたという楽観的なメディア論が支配的でした。
様々な意見が交わされた後、議論は「メディア環境が多様化する現代において、個人がメディアのメッセージを批判的に見抜く能力、および適切に情報を発信する能力が一層求められる」という凡庸な結論に落ち着いています。
報道する側は政治的な理由から情報操作をせざるを得ないことがありますが、それに関係のない人々から見れば、許しがたいものです。これはマスメディアへの不信感をさらに深めるものです。
この不信感は、NHKのETVシリーズ「戦争をどう裁くか」の政治介入問題や、関西テレビ「発掘!あるある大事典」の捏造問題など、蓄積されたいくつかの事件によってもたらされています。これらのようなメディア・リテラシーのあり方を論じるための重要な事例は事欠きません。
芸術の臨床が暴露する瞬間
治療という行為においては、患者と医師という関係性が存在します。この関係性では、患者は常に緊張状態にあります。そこに異質な要素を取り入れ、緊張を一時的にでも解くような企画が存在します。
そのような場において、アートは社会的機関として導入されます。しかし、医療現場における表現の自由は保証されていません。
アートという表象は、本質的に力の捏造です。この捏造された表現を医療に取り入れることで、医療行為に何らかの影響を与える場合、対象型と相補型の複合した関係性が相互依存することになります。これを維持するためには、緩衝地帯を作らなければならないのです。これはケアのジレンマを引き起こします。
「正しい、正しくない」という二元論ではなく、具体的な経験がない限り、習慣化されたものが根本から見直されることはありません。
社会規範が強く働く中で、「芸術の臨床」が創出されることは少ないです。アーティストが問題を整理する方法論は一般的かもしれませんが、それだけで「芸術の臨床」が成立するわけではありません。
「ディセンサス」の端末市民
メディアは『感覚と意味の合致』を即座に創出する強力な装置です。テクノロジーの導入により、その規模と速度は予期せぬほど極端に拡大することがあります。
インターネットのユーザーが共感を形成しようとする過程で、その規模とスケールに圧倒されがちです。この現象が不安を増大させる理由は、ネット上のメッセージが、実際の感覚や意味を模倣するにすぎないためです。
インターネットのユーザーが共感を形成しようとする過程で、その規模とスケールに圧倒されがちです。この現象が不安を増大させる理由は、ネット上のメッセージが、実際の感覚や意味を模倣するにすぎないためです。
一方、インターネットやモバイルネットワークに常時接続して生活する私たちは、抑圧された集合体として存在します。抑圧を受けなければネットの恩恵を享受できないというジレンマに直面しており、相互監視や資本市場への隷属を前提としない限り、『リアルタイム』や『共有』といったコミュニケーションの形態は成り立たなくなっています。
みんな意見は正しくない
SNSを肯定的に評価する人たちにとって重要な概念は、「シェア」や「共感」によって生まれる「集合知」です。
集合知は古くから議論されており、集団の多様性が推測の誤差を解消するという定理に基づいています。。
しかし、この定理には大きな欠点が存在します。『みんなの意見』には客観的な根拠が欠けており、SNSのユーザーが常に冷静で理論的に正確な判断を下すことが保証されていない限り、集団誤差は小さくなりません。特に偏見や誤解が強い集団では、正確な判断を期待することは困難です。
オンラインの社交は欲望と共に均一化され、その均一化された社交が金融化され、資本主義によって搾取されています。
ソーシャルメディアのプラットフォームは、資本家によって収益化されている状況も考慮すべきです。電子化が経済合理性だけに基づく場合、それは社会的な境界を作り、分断を深め、多くの格差を広げる結果を招く可能性があります。