三流シェフ

※読んだ本の一部を紹介します。

※そのままの文章ではありませんが、試し読みする感覚でお楽しみください。

はじめに

 東京四谷の住宅街に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業したのは1985年、今から37年前のことです。

 住宅街の奥まった場所にあるその建物を、ひとめで気に入りました。控えめだが温かみのある洋館です。敷地内の樹木のたたずまいもよいときました。

 もしここが料理店だったら、間違いなくおいしいものが食べられそうです。

 窓に灯りが見えたので、迷わず玄関の呼び鈴を押しました。

 「この家を貸してくれませんか?」

 幸運だったのは、そこがセカンドハウスだったことです。こうして「オテル・ドゥ・ミクニ」は、東京の片隅で産声を上げることになります。

 最初の半年は、お客さんがほとんど入りませんでした。しかし、気がつけば人生の半分以上をこの店と過ごしていたのです。

 いろいろなことがありました。

書籍情報

タイトル

三流シェフ

第1刷 2022年12月

発行者 見城徹

発行 (株)幻冬舎

著者

三國清三

フレンチシェフ。

 世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど、国際的に活躍しています。2020年にYouTubeを始め、スローフード推進などにも尽力しています。

出版

幻冬舎

洗い物をしながらチャンスを窺う

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 上京して帝国ホテルで働くようになってから、配属されたのは中二階にある「グリル」の洗い場です。

 グリルの元々の意味は焼き網、鉄網や鉄板を使って食材で焼くことを意味します。牛肉やアワビを焼くグリルスタイルのレストランは昔から人気でした。

 帝国ホテルには、グリルのような料理店が18店舗あり、料理人だけでも350人を超えていたのです。

 その頂点に君臨するのが、村上総料理長でした。

 帝国ホテルの厨房では、ソース作りに大量の赤ワインとフォン・ド・ボーを使っていました。フォン・ド・ボーは仔牛の骨から取った出汁です。巨大な寸胴で何時間もアクを取りながら、山のような仔牛の骨と野菜を炊いてソースのベースに使っていました。本格的なフランス料理はこうなのです。1日も早く、あそこで料理したい。

 毎日、せっせと洗い物をしながら、虎視眈々とチャンスを窺いました。

 誰よりも、手早く鍋でも皿でも、綺麗に洗います。洗い物が無くなったら、忙しそうな人を手伝う日々です。

 村上総料理長は「きょうの料理」という番組の人気講師でした。その収録場所は「グリル」の厨房だったのです。18のレストランの中で、午前中に厨房が空いているのはそこだけでした。

 洗い物をしながら見ていると、村上さんは食材を準備するのも、包丁や鍋を用意するのも全部1人でやっていました。厨房に料理人は何人もいたけれど、なぜか誰も手伝おうとしません。

 不思議でしたが、これはチャンスでした。

どうして私の好きな料理を知っているのだろう

takedahrsによるPixabayからの画像

 1週間後にアメリカの大使を招いて晩餐会がありました。その1週間後にソビエトの代表を招いての晩餐会です。人数は6組12人、当時はアメリカ代表とソ連代表は同席させないという不文律がありました。それが、私の初めての仕事です。

 大使がひいきにしている料理店を探し、その「オーベルジュ・リオン・ドール」に連絡して研修を頼み込みました。

 フランス料理には無数のテクニックがありますが、全てを習得しようとしたら何年もかかります。けれど、一皿の料理を作るのに必要な技術はそれほど多くありません。

 フルコースを構成する料理の情報を、細かに教えてもらいながら、その場で作ってみます。それだけを1週間続けて、わかったことがあります。

 フランス料理だろうがなんだろうが、料理は料理なのです。切る、火を入れる、味をつける、基本はそれだけになります。

 そんな冷静なことを言えるのは、40年以上も経った今だからです。

フランス人じゃない。

spencerによるPixabayからの画像

 厨房ではまかない料理を、マンジェと呼びます。「アラン・シャペル」のマンジェは当番制で、料理人が交代で作っていました。

 私が当番の日は好評で、いつもはみんな喜んで食べてくれるのに、その日は様子がおかしかったのです。

 仲のいい料理人が一口食べて首を傾げ、テーブルにあった生クリームに手を伸ばしました。外が暑いのに、こんなに薄味で良いのかと言うのです。

 彼らが、日頃から尋常じゃない量のバターやクリームを食べて、食後にチーズをたらふく食べることを思い出しました。実に幸せそうに食べています。

 それでようやく目が醒めました。私はフランス人じゃない、と。

 8年もフランスで暮らして、朝から晩までフランス語でしゃべって、フランス語でケンカして、夢までフランス語で見るようになって、自分はフランス人になったつもりでいました。

 けれども、私はどこまでも日本人だったのです。

 三ツ星の店で高い評価を得て、三ツ星の料理を作っていたので、フランス料理は私のアイデンティティでした。それが見当違いだということに気づいたのです。

 私が作っていた料理は、色も形も香りも味も「アラン・シャペル」の料理でした。

 日本に帰って自分の料理を作ろうと思ったのです。

ジャポニゼにしてのけた

jinwoo leeによるPixabayからの画像

 有名になると、当然のごとくバッシングが激しくなります。特にフランス料理を知っている料理評論家の人たちからは、ひどいことを言われました。

 本場のフランスに味噌だの醤油だの米だのを使う料理はないと言うのです。その当時は確かにそうだったのでしょう。今はどうなっていると聞いてみない気もします。

 三ツ星の店で最も重要なのはオリジナリティです。どんなにクオリティが高くて、美味しくて、豪かでも、オリジナリティがなければ三ツ星になれません。

 自分の料理を作るようになって、かつての師匠、ジラルデやシャペルがいかに天才かということが身に染みてわかったのです。

 開業から5年過ぎたある日、お店に思わぬ人が顔をみせました。ムッシュ・シャペルです。

 わざわざ私の料理を食べに、足を運んでくれました。

 料理を食べ終えると、ゲストブックに長い言葉を書き残してくれたのです。

 並大抵ではない頑張りとインテリジェントな仕事ぶり、その2つの力によって君は僕が愛してやまない世界をみせてくれた。…
 彼の師匠と呼ばれるフランス人シェフたちの料理を見事に「ジャポニゼ」してのけたのだ。…

 アラン・シャペルは無くなる約2カ月前に私の料理を食べに来て、ゲストブックにメッセージをくれました。

感想

サイト管理人

サイト管理人

 シェフ道に身を捧げた人の濃いストーリーはいかがでしょうか。

 ローカルで有名なレストランで料理することを目指し、帝国ホテルで料理ができるようになるようにチャンスをみて、そして本場フランスで三ツ星レストランで働き、遂には料理の創作をしました。自分に置き換えて想像してみると、胸焼けがしそうな努力を感じます。

 料理は、食べる側に専念したいと思います。

 フランス料理を目の前にして、「芸術だなぁ」とは思うものの美味しくは見えないので、やはり私も日本人なのでしょう。

 余った幕の内弁当を、適当に炒めてチャーハンにし、うまいうまい、としている私には、料理は気取ってなくても料理だと感じます。

 成功までのストーリーは、山あり谷ありで面白いものです。なにかの夢、目標の一助に、本書はいかがでしょうか。

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